「いい事ないかな」と口癖のように言っていたんだけどね。
はじめに
なにかしら、そういった系のブログ記事みたいで胡散臭い。こんな内容の文章書くような人間では自分はないとおもっていたのだけれど、紆余曲折、こういう考えに至ってしまったので致し方ない。この考えも論理の背景を理解していると悪くない気がしている。
「いい事ないかな」と口癖のように言っていた自分が、珍しく気付いっちゃった系
昨晩、最近口癖になっている「何か、いい事ないかな」を呟いてふと気づいた。「最初はこの口癖は病みやすいかな」だった。そこで一連のTweetをTwitterに上げた。
◇1投目
昔ハウス名作劇場『愛少女ポリアンナ』の主人公のする良かった探しが、嫌いで、欺瞞であるように思っていたが、可も不可もない日常で「いい事ないかな」って呟いてるよりは、精神衛生上良いし建設的に思えて来てるので、年齢を重ねるというのは不思議だ。まぁ大きないい事一つありそうなんだけどねw
◇2投目
まぁ、事実の評価を良かった点にだけ絞ったり、不幸な状況から目を背けて良い事だけ数えるのが最適解とは思わないのだけれども、良い事も悪い事も平坦な日常として処理し続けて「いい事ないかな」って呟いてたら病みそうな気がして来てだな、ちょっと自戒したのだった。
◇3投目
ところが、最近とても良いことがある予定となったので、その日興奮して、意図的にクールダウンして入眠するぐらいだったのに、「いい事無いかな」って口癖の性でちょっといつも通りの不満な状態となったので、まぁ、こりゃ良くないなと。口癖と込める意味や気持ちは選んだ方がいいのを思い出した。
*) Tweet の 接続詞が変なのはご容赦を、そして投稿時のままです(苦笑
その後ベッドでつらつら「いやいや、いい事なんて自分で作るか仕掛けていかないとならないモノだろう」と思った。
そして「他人に幸せを運んでもらって満足するのはそもそも子供っぽい」「大人は自分でいい事や幸せを自分に運ばないとだめだ」と自分に言い聞かせた。
そこから思い出すように、「子供の頃は楽しかった。休みと言えば両親が行楽に連れて行ってくれるし、誕生日にはプレゼントがもらえた、でもそう言った事は大人になっては自分でやらなきゃらならい」と勝手な大人像を描いたが、ふと「でも他人からやってもらった方が幸福度高いんだよね」とよぎった。
そこからちょっと読み止しの本に目を通し、眠くなり、入眠しかかってふと気が付いて目が覚めたのだが、「外人がサプライズ好きなのは、相互に「いい事」を交換し合うことで、幸せを送り合うという適応なのかな」。そして完全に起き上がり、「確かにサプライズは大きな幸福感を交換しあえる。サプライズってほどでも無いけど意外と我が家も捨てたものではない。妹にプリンを買って帰ったり、妹からお祝いを貰ったりするし、両親にごちそうしたり、誕生日にはケーキを買い合ったりしている。そういう意味ではもっと小さな事にまで、小さな思いやりや幸せの送り合いは及んでいて、実は送られた「いい事」に溢れて支えられているんだろうな」と考えて、完全に何かすごい事に気付いた気分になって目が覚めて夜食を食べてしまった。また太るわ。
今朝はそれらを思い出して、いままで以上に他人に意識的にいい事を送って喜ばせたい気になっているのであった。
以前は薄っぺらいと思っていた「いつも誰かが誰かに幸せを送っている」といった系のキャッチコピーとかに真実味を見出した瞬間であった。