Lesaria の Multiple-Choice

最近、本買いログがメインになっています。たまにPCやガジェットに関して記事にします。

ストレッチ、構造分析、お座なり。

 お疲れ様です。最近暑くて都内を歩くの止めてます。それが原因かフラストレーションが溜まりがちでストレッチなぞしているのですが、今日も相変わらずクェスのように「みんな死んじゃぇ~~!!」と叫びたくなります。何かを否定したり攻撃したりする対象を得るとこの手の精神不安定(?)は安定しそうです。何か現状に適応的な価値観を見つけて、それにそぐわないものを徹底的に否定してしまうのが楽な逃げ道なのですけれども。って前にも書きましたねこれ。まぁその手を使うかは兎も角、ストレスを抑え込むのに納得できる理屈と価値を背景に他者を自分の中で貶めれば抑え込めるような気がしてはいます。

 さて今日は昼食後、食事友達と渋谷でお茶をして本屋を冷やかしてわかれました。机を挟んでちょこっと会話しながら「黒猫のウィズ」をプレイ。別れた後、渋谷大古本市に足を運び、二冊。みすず書房ロラン・バルト「物語の構造分析」、平凡社ライブラリー今村信雄、「落語の世界」を購入。今Second Lifeでおしゃべりしながら包の封を開けて取り出すと急に手が痒くなったので、防虫剤を紙袋につっこんでそれごとビニール袋にいれました。ダニです。そこから私自身はシャワーを浴びました。明日日干ししないといけませんな。

 今日の思案は「何事にも理由が存在する」という立場をとるかとらないか。その立場をとることのメリットは自分が理由を探して理由をノードにして物を捉えるので捉える世界に輪郭が出来るのではないか?この表現自体感覚的で論理的でないのだけれど。論理的であれば良いというわけでもない。対象を同定できればいい。実際言葉で物を捉えるとして、各々の根拠の端は曖昧なんじゃないかと思っている。今の僕のものの捉え方は、感覚的に言葉で切り取っているだけなので、論理的に一つ一つの対象を同定できるように表現できているか自信がない。「何事にも理由が存在する」という立場で理由と理由をつなげて捉えていくと捉えている世界の端は理由という終端があることになる。むろん「理由」を探している最中の端は曖昧となるが、一個前の理由が存在する。このような捉え方をしたときのそれを「輪郭」が明確と評してよいんじゃないか・・・。ちと論がずれた感があるのですが、今日はも時間も遅いのでお座なりにそろそろ閉めます。僕は一段落目の問題と、この三段落目の捉えるってことに関係を感じていたりします。続きはまた。

 

参考までに以下のリンクを置いておきます。

東京古本市予定表

 

 

物語の構造分析

物語の構造分析

 

 

落語の世界 (平凡社ライブラリー)

落語の世界 (平凡社ライブラリー)