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Lesaria の Multiple-Choice

とりあえず、日記がメインのはず。最近では、小説を公開したり、聴いた音楽や考えてることについて話してます。

久しぶりに戯言

哲学&思索

 そもそも戯言もずいぶん空いているので、以前の思索をなぞる所から始まるのだと思う。僕は人の思想や精神を外環境の要求と内的必然に適応したものだと思っている。人は現状を受け入れるために捉えし、現状に適応するために自らを処す。このときの「捉え」や「処す所」は類型化できるように考えている。もちろん人は現状を否定し、現状を覆すために自らを処す。このときの「捉え」と「処す所」も類型化できるのではなかろうか。

 与えられた状態が同じなら、適当な「処し方」は一様であるはずだ。と考えがちだが、生物の多様性を見るに、生命という巨大な群体は、相互依存的に「環境」を生み出して今に至る。この方向に論を進めるのも面白いが、今はまだ手にあまりそうだ。

 なので以前の戯言をなぞろう。意識に与えられた状態には外的環境と内的環境があり、内的環境と言語的意識はトータルで外的環境に適応する。思想というのはこの二つの環境の要求に意識が適応した結果だ。社会に出ると職務遂行に対して合理性を発揮するという点において対応のバリエーションが一様化する。学生がサラリーマンを無個性に感じることがあるなら、ここが原因だろう。もちろん前段を踏まえると、ある軸で一様化しながら、集団において個別の役割を担うために個性化せざるを得ない。

 このような一様化は実は家庭とか出身校とか、地方、国っていうレベルでも程度は違えど起こっているのだろう。逆にその中に居る人間はそれを共通認識とするので互いの個性を測る目安になり難いんじゃないだろうか。僕は社会学と心理学から個人の「思想」を考えさらには「哲学」を論評したいのかもしれない。けど個人的な楽しみとしては遠大で面倒そうだ。

 次は一様化(規範の遂行)と個性化の関係に関して考えてみるべきかもしれない。さて「考える」ことに魅了される人間の多くは多分。自由思索が自立的であるとか、その証明であるとか考えたり、その効用について論じることが多いと思うのだけれど、僕は環境の要求とみなす立場で考えてる。こんな風に考える人間は学問的にはともかく、世間一般では少ないんじゃないかとは思う。

 

 

クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い (講談社文庫)

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哲学用語図鑑

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