Lesaria の Multiple-Choice

最近、本買いログがメインになっています。たまにPCやガジェットに関して記事にします。

土曜・日曜・プラグマティックもいいけど夕飯まだなんだよ。

■土曜
 土曜はお昼前に新宿に出て食事友達とサイゼリヤで昼食。ドリンクバーで居座り、管を巻く。黒猫ウィズの話に終始して別れる。雨が降り出していたが、取材と称して経堂まで足を延ばした。直ぐ止むだろうと思っていたが止まず。雨で何もかも面倒になり、駅前のコルティに入っている書店を除き「月下上海」を購入。何年か前に、TVで紹介されたのを見ており、文庫落ちを心待ちにしていた作品。そして帰路。

 経堂について書くと、経堂駅の北には桜上水に挟まれて日大。南には桜新町に挟まれ農大。そのほかにも中高が点在する学生街となっている。世田谷区のど真ん中。ここに依頼人の自宅がある設定とする予定で街並みを見に行ったわけだ。


■日曜
 日曜は朝は歯医者。午後からダラダラ黒猫のウィズをプレイしながら、家で籠っていたい気持ちを振り切ってスポーツクラブ。行く途中にあるコンビニで、ゲンスブール・ナイトのチケットを取り出して、ヨガだけ参加。17時からロビーの椅子に座って、黒猫のウィズの「木曜の神樹」で進化素材を狩る。お目当ての水のS+が落ちない。何度か回って溜まったSを進化合成してS+2枚を仕立てて、シールを「夏夢航路の女神様 シール・サンテ」へと進化合成。


■プラグマティックもいいけど夕飯まだなんだよ。
 思想も内的な要求と外的な要請から選択肢を絞り込まれる。思想も淘汰され適応する。じっくりと考える時間がなく、ここから先に進まない。神経疲れたて休ませないととか言って土曜日スポーツクラブ行かなくなったことが原因かなとも思う。

 社会学と心理学と哲学について考えたい。この三つ各々とその間にあるものについて良く考えたい。だから思想も淘汰され適応する。ってことを今日は社会との関係について考えてみる。

 社会は決して主体足りえないのだけれど、往々にして人は社会に主体を与える。社会の要請に答えるという形で。社会に適応しても社会に主体を与えなければ良いという考えもある。しかし多かれ少なかれ、自発的な判断より、社会的な大多数の判断を読みとって人は社会に適応する。当然のことだ。

 例えば、一つの言葉なら兎も角、自分で言語を再発明して広めることを考えてみて欲しい。全てを個人の内から出てきた基準で行うことのコストの高さたるや。また今何か貴方が考えたり判断したとして、本当に自分で考えたことに立脚して考えた貴方自信の判断だろうか? 何処までがオリジナルの君の考えか? まぁ自分で判断しているなら、「オリジナル」である必要もないと言うことにするなら、今下した判断が正しいことの根拠について考えたことはあるだろうか?

 根本的に社会から何も学ばずに思考したり基準を設けたりすることは不可能に近い。なので、「自分で判断しているか否か」というのは飽くまで「どこまで自分で判断しているか」という程度問題にすぎない。考えるという行為は、古典的な真理よりは、プラグマティックな何かに支えられている。もっと考えたいけど、だんだんお腹すいて考える余裕なくなってきたので、夕飯まで間食せずにしのげそうな別のことしますww

 

月下上海 (文春文庫)

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