Lesaria の Multiple-Choice

最近、本買いログがメインになっています。たまにPCやガジェットに関して記事にします。

今日の思索 ~思考のカーネル~

起 言葉で分割すること

 言葉で分割する。言葉で分割して捉えるであるなら、既存の言葉から、これらについて考えてみる。簡単なところで言葉は何かに適うことを括り出すことである。それらを複数組み合わせて要件を組み立て定義を生み出す。「食べられる」、「赤い」、「丸い」。それらに適うのは例えばリンゴである。(ここまで来て論理学を勉強してこなかったことを後悔する。)排他、リンゴだけを指してリンゴでないものを指し示す。言葉で捉え始めるときに概念として排他は必要だが、思考を進める役に排他は役に立つまい。として、幼い日も同じように考えたことを思い出す。そもそも排他に着目すべきだろうか。言葉で括りだした対象の一群に名前をつけてリンゴと呼ぶ。たとえばここにトマトを並べる。これが人間にとって区別がつかないものであるなら区別する必要はないのだが、ひとつに味が異なる。形状も微妙に異なる。現実世界のこれらの言葉の実際を忘れていいのなら、我々はここで、トマトを味が違い形の歪なリンゴの一種とみなしてもよいかもしれない。トマトとリンゴの違いは決定的で紛らわしいであろうから多分僕なら別の名前をつける。

承 何故こんなことを考える?

 そもそもこんなことを考えているのは以前書いたように思考を言語化するために「内言」で思考する癖をつけたからだ。つまりに絶えず自己に言語で問う癖をつける。その場合なにを中心的な問いにすべきかということだ。この思考自体はある種、哲学的だろうが、その問い自体はとても実用的な性格を帯びるだろう。それに基づき世界を分ける問い。そのために言葉について、言葉で捉えることについて考えている。

転 中心的な問いについて

 中心的な問いはその人間が持っている哲学的テーマとはまったく異なる。実用的だ。とりあえず、カーネルと呼ぼうと思う。これから先は書きながら考える。多分別段、他人の思索として魅力あるものでもないと思う。ただ僕が考えていることを晒すのが目的なのでここに記してしまう。一般的にカーネルを構成するに相応しい既知の言葉は「今何をすべきか」「目的はなにか」「前もって何を考えべかきか」「前もって何をすべきか」「何を考えるべきか」「どのような要件を満たして行動すべきか」こんなものだろうか。最近加えるべきだと思ったのは「どのような要件を満たした結果を出力すべきか」「どのように捉えるべきか」これらの問いかけを「内言」で行いつつ生活できればよい。カーネルの要素はいつでも追加できるだろうし。 

結 今日の思索を見直す

 そしてここまで書いて先を振り返る。これらの中に判断の基準や価値について触れられていない。言語的な思考で欠くべかざるものなのに。しかし今あげた問いからカーネルを作ることからはじめてみようかと思う。そして論がずれたところで結論を得ている。そこが僕らしいとも言える。そしてそれを言語的思考に結び付けうるかはまた別の問題になりそうだ。一段落目で考えていた言葉に関する思索も別のところでつながるだろう。本当はそれを考慮してカーネルを作る必要性を感じていたが言葉の羅列から漏れたのか、そもそもそこはそんな風にはつながらないものなのか。