Lesaria の Multiple-Choice

最近、本買いログがメインになっています。たまにPCやガジェットに関して記事にします。

「漫画的プロファイリング」のための試み 備忘録 その9 ~ コーピング行動に関する思索

はじめに

 以下の内容は何かしらの専門書、学術的書物によるものではなく、それらを摘み読みした筆者が自分の思索を巡らせて考えた内容の開示。という点で、初学者の目線による考察やレポートと言った趣旨の文章です。その点、お含み置きください。

コーピング行動の変容

 ある種のコーピングとして取られる行動。これが正しくコーピングとして機能している場合、適応的コーピングと仮に呼ぶことにする。例えばそれがアルコールの摂取である場合、もちろん最初のうちは「適応的」なコーピングであろう。これを「適応的コーピング」と名付けることにする。

 適度に効果のあるコーピングは、多分コーピングの必要が無い時も習慣化する。そうなっても例えば飲酒自体の機能性は失われない。実質的にはコーピング不要なときも、快を求めてコーピング行動を取る事になる。なのでこの状態「習慣化コーピング」と呼ぶことにする。

 習慣化したコーピングは場合によっては、義務化する。飲み友達ができ、付き合いで呑むことが増え、飲みたくないのに飲む。コーピング行動は必ずしも、ストレスを発散するものではなく、場合によってはストレスを呼び込むものにもなりうる。こうなった状態のコーピング行動を「義務化コーピング」と呼ぼう。これが依存と呼べるものまで育った場合「依存化コーピング」と呼べるかもしれない。

 ただし、コーピングとして機能していた一連の行動が、何かしら、ストレスの発散以外の意味を持って行われている場合。趣味、あるいは個人的探究対象、収入源となるような場合、この「義務化」を問題視するべきではないであろう。
 また本来コーピングであった飲酒に「情報収集」「接待」「交友関係の維持」であるとか「お喋りして発散する」という別のコーピングであるとか、そういった「義務化」が選択されることはある。この場合も同様だ。当然、経済的に、医学的に、問題となった場合はその限りではない。

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まとめ

 このように考えれば、純粋にコーピングとして取り扱うには、気分に応じて実行したりしなかったり出来るべきという点で、不必要に義務化しにくいものが良いだろう。
 スキーマ療法と関係して論じるなら、自己犠牲スキーマの持ち主が、人と会ってお喋りするコーピングを選ぶ。これ自体は、不必要に相談のったり、世話を焼きたくならない相手とのお喋りなら問題ならないだろうが、ケースによっては、単にスキーマを維持してストレスを引き込みかねないリスクがあるのは自明だろう。この場合、一人で出来るコーピングがあれば好ましいのではないか。

 つまり、コーピングは習慣化までは良いが、義務化せず、依存化せず、すぐ止めれるものが好ましい。もちろん、何か目的とする行動がコーピングを兼ねる。あるいは兼ねることを折り込むのは構わない。この場合は義務化、依存化も何かしらの大きな目的に寄与する機能的行動であるなら問題視する必要はないはずだ。
 
 ではここで、習慣化、あるいは義務化、依存化した行動(コーピング)を一括りにして「自立的習慣」と呼ぼうと思う。僕らはある人たちの「自立的習慣」を見た時、どのように考えればいいだろう。背景には今まで論じてきた経緯が背景に読み取れるはずだ。ここでは、まだ知識が足りないので列挙できないが、回避的であるとか過剰補償的であるとかと言った分類なり傾向なりとして取り出すことで、その先にある人物像に触れることが出来るのではないだろうか。