Lesaria の Multiple-Choice

最近、本買いログがメインになっています。たまにPCやガジェットに関して記事にします。

現在の思索の主題。~昼はざる蕎麦~

 今朝は朝、先の日記を書いて投稿。そのあと記憶がございません。昼食にざる蕎麦を食べまして、自室でうとうと。しながら「黒猫のウィズ」をプレイ。そして16時から友人とお茶。Book1stは冷やかすだけで帰宅。予定では初ヨガとJavaのコードを書いて日記にしようと思ってたんですが、自宅で過ごす休日の予定というのはままならないですな。どちらかは行ってここで報告したいものです。

 さて哲学的雑文を書こうと思っておりましたが、いざとなると切り口に悩みます。今の僕の哲学的立場。つまり仮に正しいとして出発する前提について明確にします。まず全ては「一つ」であると思っています。あるいは数多の層と数多の要素と数多の連関により成り立つ混沌としたものです。我々が事象を捉えるということはそこから自分が認識可能な範囲を分断。その枠の中を捉えるということです。必然的に捉えるということは限定的に抜き出された実在にされた解釈となると思います。これが出発です。

 以前には「真理」を見つけることを自信のテーマに置いていました。それは、唯一の答えであり、そこから始めれば何もかも説明がつき、基準にすれば何もかも判断できるようなものとしておりました。加えてその先に「万人にとってそうであるもの」と考えました。今でもそれに近いものをひょっとすると「哲学」する人工知能なるものが将来発見するやもしれぬと思います。ですがそこまで抽象化された「答え」が個別の状況に指針として役に立つものなのかとは思わなくもないです。たとえばそれが「人間は自らが信じる所のものを信じ、それのために生きる。そしてそうあるべきだ。」という類のものだとしても、そしてそれすら人間性を阻害する可能性を孕んでおり、覆る可能性に思いを馳せます。

 最近、竹田青嗣「言語的思考へ」を読んでいます。某所で薦めてもらい読み始めました。それは、故あって再度、言葉でものを考えよう。意識を言語化しようと試みるにあたってです。この本はまだ読みかけで内容にここで触れることはしません。言語化を掲げて、色々考えます。本にはこんなこと書いてないのですが、任意のことに価値を見出し、そぐわないことに価値は無いと信じ切り捨ててしまう。加えてその価値を認めないものを心の何処かで馬鹿にしてしまう。そいうい態度は頂けないと思いつつ、若い頃は意図せずその道を通りました。そして一定の水準に至ってから、その態度を戒めるのです。早道のようにも感じます。また自然なアプローチだとも思います。ただ他の可能性を考える自分がここにおります。

 こういったことと平行して、自分のありようというものを「戦略」と捉えるようになりました。以前の僕の考えとの比較はまた行う機会があるかもしれません。唯一の答えが発見不可能であるなら、正しい答えを探してそこから出発するのは人生における費用対効果の点でどうかなぁと言うのもあったり。「正しい答え」を考えることを続けるか否かはさておき、当面の自己の振る舞いの根拠を言語化する必要を感じているのです。漫然と感性だけで生活して仕事していくのは色々無理が出てきました。ここでも問題があります。何が自分にとっての利益になるのかということを明確にしていかないとならないのです。これ一歩間違うと色々困りそうで難航しています。この先はまたの機会に。