ロートルは、おっかなびっくり歩くのを見かねて、八神幸子が説得したため、事務所に残った。彼女の白いセダンで、二人、新宿MSビルに向かう。
私の持つ、新宿駅西口のイメージと言えば、どこが地上か判然としない高層ビル群と言ったところだ。駅から地下通路を歩いて行くと、天蓋がなくなり地上であることに気付き、掛かる橋に上がると、そこにもビルの植わる大地が広がる。
車は彼女の命じた通りに、谷にあたる都庁舎隣のMSビル北側に止まり。19時40分に、私達を歩道に下して、AIの制御で、駐車場を探して走り去った。薄暗いと言っても周囲の街灯や看板、ビルの窓からの明かりが辺りを照らす。歩道から10段ほどのステップを登った所にある花壇の端に腰かけて、吉川と野沢が待っていた。
二人は私に気付くと、立ち上がり、八神幸子に気付いて、吉川は表情を曇らせ、野沢は怪訝な顔をした。
すこし間を開けて、吉川は自分からステップを降りて、私達に歩みよって口火を切った。
「エリカさん、ご紹介願えますか?」
「私は警視庁の八神です。娘さんとお話しされた後で結構ですので、任意同行願えますか」
「あんた、売ったのか、俺たちを、娘さんを」
上から見下ろして、今にも噛みつきそうに問う野沢に、後ろめたさを少し覚えて、私は言い訳した。
「これでも、アリスが人間として暮らせる可能性を探して選んだ選択なの」
「止めたまえ、探偵法上、明らかに犯罪と思われる事件を黙認できないことは、私もわかってた。こうなることは予想していたよ」
吉川がなだめ、八神幸子が口を開いて言い添えた。内心安堵した。
「安心してください、お嬢さんの人権が守られるように、上申するつもりです」
「分かりました。アリスをお願いします」
「野沢くん、安心してくれ、私は大丈夫だ」
そう言ったが野沢の不服想な顔は変わらなかった。
「一応お持ちしました。予備の
吉川はそれを首に付ける。頃合いと考え、アリスにメッセ―ジを送った。上手くいってもたぶん数年は父と会えない。それどころか彼女は、その期間を感じることの無いかもしれない。
〔約束の時間までまだあるけど、アリス、今来れる? 今、お父さんと一緒にいるわ〕
今すぐ来ると返信があり、少し離れたところに、淡いシャボンに照らされてアリスが現れた。
<父さん!>
父を見つけるや否や駆け寄り抱き着いた。私がかつて望んだように。
<やっと会えた>
そう、口にするアリスの目から涙がつたう。私達は遠慮がちに少し二人から距離を置いた。そこは父と娘のための空間だ。だけど無粋にも二人の背後の路肩に留まっていたグレーのバンから、作業服を着た男たちが数名降りて、ビルのエントランスに向かっていく。私は舌打ちしかけて堪えた。
頭をなでる吉川。アリスは5分ほど父を抱きしめていただろうか、気付いたように体を離す。
<お父さん痩せたわね。ちゃんと食事食べてるの?>
「まるでお母さんみたいな口調だな。元気にしているか」
八神幸子と私は顔を見合わせて、遠慮がちに少し離れた。中華料理店の予約は無駄になりそうだ。
<私は父さんが居なくて寂しかったわ>
「心配をかけたね。父さんも母さんももう大丈夫だお前は心配することはない」
<うそよ、あの人は、浮気相手に夢中だわ、私のことなんてこれっぽっちも考えてはくれない>
「そんなことはないさ、私達は、ずっとお前の事を想って来たんだ。何がアリスの為になるか慎重に考えて。母さんはお前の事を思って再婚したんだ」
<お父さんと暮らしたいの>
「それは難しいかもしれない。私達の努力は、上手く行かなかった」
<私の事はいいの、お父さんは、どうするつもり?>
<なんとか、なるさ、次の事業を興す準備もしている>
そうする予定だった話を続ける二人。状況を知っている私達には分かってる。そうならない事も。横の八神幸子を見る、彼女の表情も僅かにかげりを帯びている。背後のバンの中では誰かが積みにを中で動かしているのか、すこし揺れていた。
<私ね、母さんの浮気相手からの送金でなんとか生活してるの知ってるの。アイツが父さんの言う次の事業に資金を出すという口約束をしていることも>
<その後はどうするつもりだったの? アイツ絶対裏切るつもりだったわよ。今後も私の件で警察に取り調べられて、有罪になる可能性もある。私なら父さんを助けられるわ>
八神幸子と顔を見合わせた、アリスは自分の事を知ってるのだ。吉川は黙っていた。その時ようやく背後のバンが走り去った。
◇ ◇ ◇
夕飯を終えて部屋に帰り、机に向かう。中学生レベルの宿題は、スタンドアローン状態でも、学習としては取り組む価値はない。だけれど川原瞳であるシャーロックはそれをきちんと行うことを日課としていた。
受入れを完了したとの進捗共有を目にして、一安心した。晴れて幸せに暮らせるというワケだ。そこまでのプロセスは今までのミッションに比べれば、不確定要素が少なく簡単だ。最後の報告の時のワトソンが音声通話で聞いてきた。
〔ログを見たよ、どうして、探偵に、自分が吉川アリスでないことを気付かせたんだい〕
〔その方が、彼女は旨く立ち回ってくれる。そう結論したんだよワトソン〕
〔僕には君の考えは理解できない所があるよ〕
〔影に誰かいる事を知っていた方が、諦めが付く場合もある。人間とはそういうものだよ〕
〔君の人間研究には舌を巻くよ。ではまた学校で会おう。瞳ちゃん〕
〔それじゃね、高屋くん〕
これで、晴れて、川原瞳としての日常に戻れるというものだ。
◇ ◇ ◇
坂口春香は、長時間のデータマッピング作業を終えた。
この研究の成果は、リアルタイムにコンピュータ上で再現されている大脳の記憶をごっそり書き換えられる技術革新だ。表には公表できないが、場合によっては、元となった記憶を法的に問題のない形に加工することで、いままで以上に人間らしい人工知能を作る事も出来る。それが富岡の望みだ。
彼女は、いささか研究の成果物を混同しはじめていたが、望むのは娘の幸せだった。人工知能になってあらゆるモノの中に生きるアリスは、世界の隅々まで行き渡る。教えてやれなかった事、見せてやれなかった事、経験させてやれなかった事、沢山の事を得るだろう。
ノックをして扉から入ってきた富岡に気付いて、たたずまいを直した。気付かないほど疲れていた。富岡は微笑んで、近づいてきて、一瞬、真剣な顔をして、春香に口づけした。顔離して、また笑顔を作る。彼女も笑って答えた。
これは二人で決めた合図なので、一瞬、ここで、富岡に答えて、幸せに満ちた気持ちでアリスを生まれ変わらせようかと思った。だけど、考えを変えて、立ち上がった。
「準備はできているのかい」
「ええ、もうすぐアリスは生まれ変わるわ、私達の娘に」
「では祝杯をあげるとしよう」
富岡が手を二回叩くと、扉が開いて、部屋に自走式のワゴンが入ってきた。彼はシャンパンを取り出して二脚のグラスに注ぐ。
「乾杯はプロセスを起動してからね」
そう言うと、春香はコンソールを呼び出して、スクリプトを走らせた。アリスの記憶の改竄が始まった。丁度八時だ
春香が、愛人に微笑んだとき、窓のガラスをけ破って、黒装束の男が三人踊り込んできた。富岡は、飛散するガラスの中、窓を向いて、ここは17階であったはずだと記憶を反芻した。武装してない我々の部屋に、SATが突入してきたとなると、非合法な人工知能研究についてほぼ証拠が掴まれているところまでは察しがついた。
◇ ◇ ◇
沈黙の中、八神幸子が私にチャットで伝えた。
〔突入は成功。身柄を確保。でもアリスの記憶の改竄は開始されたわ〕
冷や汗とともに、彼女の顔を見ると、伏せがちの目で、ゆっくりと首を左右に振る。話している二人を見る、あと少しで、アリスは自身ではなくなる。
〔止められないの?〕
〔今、停止処理を行えるように尽力しているけど、どこまで改竄が進んでいるか予想がつかないわ〕
吉川夏雄が口を開いた。
「お前、何もかも知っているのか」
「父さん、愛してる。一緒に逃げよう」
その言葉に一瞬、八神幸子の気配が変わる。でも動かない。彼女も知ってるそれはできないことを。
「無理だよ。仮に、私があそこにいる刑事さんを振り払って逃げても、お前の存在を支えるプロセッサは特殊でその技術は他にはない。別のサーバに移すことが出来ない。お前が逃げられないんだ」
「理屈の上ではどのような計算機も別の計算機上に再現できるの。処理速度の問題はあってもね」
「だが、しかし、お前それは、一生追われることになるんだぞ」
「そんなこと言わないで、もっと私を愛して、信じて、一緒なら平気よ」
アリスが再び抱きしめようと父に近づいてその途中の姿勢のまま、二人は不自然に停止した。
「まさか!」
八神幸子は大声で叫んで、自分のアダプタを取り外した。私も慌てて、それに倣う。そこに、吉川夏雄は居なかった。私達の見ていた吉川夏雄は場合によってはアリスも途中から、
「吉川さん、アンタの娘さん最高じゃないか!」
八神幸子はらしくない難しい顔しながら、再び首に巻いて、通話先の部下にグレーのバンを手配するように伝えた、グレーでない可能性に言及しながら。それから呟いた。
「レベルSSの防壁を破って目を盗むことが出来るハッカーなんて、あの時、以来だわ」
私は、思い出した。あの日、いつも帰りが遅い父に、「今日は私も連れて行って」と言おうとしていた事を。その日以来、帰らぬ事に何度、無理について行かなかった事を後悔したかを。父との長い別離を。しばらくして自分の頬に涙が伝っていることに気付いた。
それを見ていた八神幸子が尋ねた。
「エリカさん、貴方、こうなることを知っていたの?」
咎め立てるでもなく、諦めと慰めの意図を感じる口調だった。
「いえ、全く、予想してなかったわ」
シャーロックのことを話し忘れている事に気付いた。たぶん、何処かで何かを期待していたのかもしれない。このまま黙っていることにした。
あとで聞いた話だと、警察が急襲を掛けた時点で、アリスは保存されているハズのコンピュータの中に存在しなかったと結論づけられたそうだ。
ひと月とちょっと過ぎた、10月のある朝、差出人不明のメッセージが入ってた。
〔貴方の口座にお礼を振り込みました。お納めください。感謝してもしきれません。ありがとう。さようならエリカさん〕
第二話 長いお別れ 完
更新履歴
2017/03/04 初版公開
2017/03/08 中華予約 → 中華料理店の予約
2017/03/18 誤字修正 と ワトソンのセリフ 彼女 → 探偵 すこし加筆