Lesaria の Multiple-Choice

最近、本買いログがメインになっています。たまにPCやガジェットに関して記事にします。

「漫画的プロファイリング」のための試み 備忘録 その1

そもそもの動機

 まだ、幼稚園に通っていた頃と思う。一人遊びばかりをする僕に母は、「あなたは他人に興味がない」と指摘した。僕は親の期待に応えなければならないという、ちょっとした、プレッシャーから、人間を理解する課題を自分に課そうと考えた。

僕が取った手段は背景の理解出来ない行動を質問するというものだ。これは後々、相手の考えをきいて、さらに何故そう考えるのか尋ねたり、議論をしないか持ちかけたりすることに繋がる。

 この頃僕は考えることに重点を置いており、日々「考えるための時間」を取るようにしだした。

 僕は小学生の頃から、自称の類の哲学者として自らを考えた。自分に付いて考えるに、自らを規定する必要性を感じた。その時の考えが、自らの精神とは、「自らが様々な問題について考え、結論づけ立場を決めたその集合と順番である」と導いた。この立場は今から思えば、とてもアプローチが言語的だ。また僕はこの、相手の思想を理解する考えに固執した。

 これらの結果、議論をしつつ、相手が立つ立場を支持する立場を推測して、布陣を引いたり、相手の主張から、背景にある相手を支持する立場を指摘するに至った。まぁ、これで哲学科行ってないんだからなんだけど、今からでも哲学科行ってみたいな。

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心のモデル

 ここからは、最近の試みだ。そもそもは、大学生の頃、相手と議論することで、理解し合おうという、他者理解の試みに限界を感じていたことに端を発する。今になってこれに手がついたのは色々経緯があるが割愛する。

 人の心の形を年代毎に、要求されてきた課題への適応とその、積み重ねと捉える。古い適応は新しい適応により、上書きされその現型はなりをひそめる。多分残滓として観察される。

 課題とは社会や地域、所属集団内で年齢や経験に応じて要求される適応の課題である。また構成する人間間のダイナミズムで生まれるだろう。社会的、個人的、遺伝的な、個別の条件も同様だ。

 ちなみに、このように心を捉える、心の学問や、その流派を過去にどこかで読んだ気が強くするが、もどかしいことに思い出せない。

 つづけよう。古い層の適応が顕著にみてとられる場合。それは、年齢に適した課題が与えられなかったか、彼が、過去時のその適応に固執する理由がある。固執する理由の中には、その核としての何かが、彼に成果を与えている場合がある。古い層への適応が顕著に見えるというのは、彼が所属する集団で、やや幼稚に、あるいは劣って、場合によっては変わり者として、見える可能性を示唆する。度合いによっては個性に止まるだろうけれども。

 ここではイデアな、あるいは一般的な適応形が暗黙のうちに想定されている。ただ、実際安定的な適応という点で、いくつかの類型が発生することは、想像にかたくない。ここで、やっと個人の類型を問題に出きる。

 

ラカン入門 (ちくま学芸文庫)

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論理性

 これはほぼ、経験に基づく感触や、若い頃に受けた助言の意図するところ汲むとだが、論理的に無矛盾な一本筋が通った「正しい事」「正しい思想」にこだわる人間は何処かで折れるだろう。というもの、課題のすべてを適切に適応していくと、最初、正しいと思っていた「思想」を隅々まで行き渡らせることが出来ないだろうからだ。

 残念ながらそういう意味では「真理」ってまだ発見されていないというのが僕個人の結論だ。とはいえ、類型が話したいので、そういう風に続けよう。論理的に考える人間は、考える足場を元に論理的思考を繰り返して、自らの考えを組み立てるだろう。それに一貫性と行いの一致を求めると、それは自ずから挫折めいた経験となりうると思う。これはそういった人々が葛藤を抱えて生きているか、葛藤を抱えない生き場に避難している可能性を考える。

 いや広い世の中、それを実践して生きて、成果を上げてる人もいるだろう。そういった人たちは少ないのではないかと想像する。

 論理的な人は、三種類の類型に分かれると思う。というか一旦三種類思いつく。先にしめした、思想的な人、この他に、目的の達成に論理性を発揮する人、(科学的)真実の発見に論理性を発揮する人だ。

くじけそうな時の臨床哲学クリニック (ちくま学芸文庫)

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今回のまとめ

 今回は思索の纏めを、ここまでにしようと思う。書いて気づいたが、大きなフレーム。課題についてどのように適応したのか、というものの集合としてアプローチする点において、大きくブレてないのは意外だ。

 また、当時と今の、大きな変化として、言葉にされた事を強く重視して論理的、逐次的に思考し、細部を積み上げるように思考、コミュニケーションしていた僕が、メタメッセージや、直感にかなり頼ってそうする現在はなかなか、昔の自分には想像し難いだろう。

 最初は、漫画的プロファイリングをお題目に始めた試みだけれど、自分による自己と他者の観察に基づく、人間観、適応観 を振り返ったりしながらまとめている以上ではないな、とも思う。お題目が大袈裟とお叱りを受けるかもしれないが、モチベーションはソコだし、僕も以前より、精密度の高い人間観、人間理解のひな型を構築する、いい機会でこのまま保って続けたいので、このままの題名でまた書きたいと思います。意外とそれらがいい線まで行くかもしれませんしね。

 思索したい課題もまだまだ山積みだ。「安定的な適応の類型」「「課題」の洗いだし」「人間関係のダイナミズム」「固執の要因」etc,etc.

今日はこの辺で。