Lesaria の Multiple-Choice

最近、本買いログがメインになっています。たまにPCやガジェットに関して記事にします。

世界の総価値は不変か? シリーズ戯言 ~自分の思索を晒す~

■個人にとっての価値

 最初に問うたのは「世界の総価値は不変か?」だった。個人にとって、すなわち主体にとっては可変的ではなかろうか? 例えば恋をすれば世界は価値が満ちたように感じる。経済活動に還元するなら、より多くのモノに価値を見いだすようになり、消費活動も増進されるだろう。そもそも世界に生きる価値があるのかという議論をする余地がるくらいだ。僕にとって世界の価値は自分で見いだすものだ。ふらっと思うのだが、個人にとって世界の価値が不変であるという立場を取る余地はあるだろうか?


■客観的に考える

 客観的に考えるなら。少なくとも真に客観的に考えるなら、そもそも客観は何にも価値を見いださない。なので不変であろう。だから、ここでは客観の一般的な意味に即して、社会的に考えて、価値は不変かと問うべきだろう。世界の価値を何に求めるか? 社会的に考えて。頭をよぎったのが生産性。次に消費力だった。この着想自体。近代社会にあする予備知識がなにかしら前提になっていると思われる。車輪の再発明というより、過去の知識が潜在意識から呼び出されただけだろう。経済を勉強した人には何の驚きもなかろう。だが僕個人にはおもしろい気づきだ。ここで世界から社会と範囲を限定して、生産性と消費力に着眼して価値を考えて見よう。


■生産性と消費力

 生産性を社会の価値と考える場合。生産性が高いほど世界の価値は高い。しかしこれでは片手落ちだ。需要の無いものをただ生産するだけのシステムなんて排泄しているだけだからだ。とんだお笑い草だ。消費力を価値とする。つまり。社会が消費する傾向が高いほど社会に価値があるとした場合。それは社会を構成している個々人が社会の中に消費する価値を見出している。ここでより消費されるものをより生産している社会こそ価値が高いとするという見解に思い至る。これは内部での生産と消費が活発であれば社会は価値が高いということだ。

 これは多分。需要と供給の問題を言い換えているだけではある。しかしこうした切り口で考えることで、経済の専門家でなくても幾つかのことに気づく。生産が消費を上回れば物が余り。消費が生産を上回れば物が不足する。これらの場合の社会の価値はどう評価すべきだろうか? 過剰な生産はゴミを作成しているのに等しい。消費を満たせないならば、世界は消費力に見合う価値がない。

 しかしこの考えは実際の経済活動からは価値が転倒している。消費が満たせない場合。物の価値は高騰する。どこかで考え違いをしたのか?

 生産性は価値あるものを生み出すことだが。価値あるものは消費されうるものだ。生産と消費は分解できない。しかし問うているのは「社会」にとっての「社会の総価値」だ。今簡単に思いつく答えに飛びつくなら、生産と消費のバランスしめおり、活発であるほど社会の総価値が高い。と考えることだ。ちょっと再考する必要を感じる。

 

 

マクロ経済学 (New Liberal Arts Selection)

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マクロ経済学 第3版 (現代経済学入門)

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