Lesaria の Multiple-Choice

最近、本買いログがメインになっています。たまにPCやガジェットに関して記事にします。

夏休みに考えた戯言 ~つーか、これ読む人いるのかな?~

 適当な心理類型に行きあたってないんだけれど、つらつらもの思う。例えば内向的な人間は自分の内向的な性格を肯定的に捉える思想と親和性が高いだろう。また内向的な自分に無理がかからないいように、ある一定の外交的選択を回避する思想を持つだろう。こういうのが多分典型的な例だ。内向的な性格に疑問を持っていたり、内向的性格の維持に必要な諦めを持たない場合。精神的な不安定さを保持したパーソナリティになるか、性格が転向していくだろう。なので僕の推測では、自己肯定、自己限定。この二つが性格を安定させる。

 こういうことを考えるなら心理学を勉強して、それを頭で考えろよ的な思いを抱く人は多いだろう。一応少しづつそういう本を読んでいるけれども、結局、「車輪の再発明」と言われても自分で考えたい人間なのでご容赦を。また専門書は高価だったりもありまして。

 話を元に戻して、意図して規定しているか否か人それぞれと思うが、それとは別に「言語的に自己を囲う」ということをしないパーソナリティも考えられるだろう。こういう人物はどのように振る舞うのだろう。幾つかの「普通」な特徴を備えていれば、「平均的」な性格に落ち着くのてはないか。そして、「平均的」というのも、彼の取り巻く環境と「個性」に左右される。

 ここまで考えてこの問題を考えるには発達を視野に入れる必要も感じる。それともスコープを限定してまず、シンプルなモデルを作って見るべきだろうか。スコープから発達を除外する。そうすると全段の「個性」は「今までの彼」である。

 「今までの彼」と「彼による規定」つまり本人の「思想的側面」が彼を「取り巻く事象」への対応を決定していく。しかし今回の思索も、ここまでは単なる同心円状の言及に思われる。実際は僕はそれを否定的には考えておらず、思索として同心円状の言及を繰り返すつど、理解が深まると考えている。

 ちなみに上の言及を解釈してみるなら「今までの彼」が心理学で言う無意識。いま更なる細分化の必要を感じているのが「思想的側面」であろう。「取り巻く事象」としたが、現象とすべきかもしれない。彼が対応しようとする「世界」は彼の「思想的側面」によってバイアスがかけられた「取り巻く現象」であるからだ。僕の感心は心理学を背景にした読心術、読思想術、それらを背景にしたプロファアリングに向いてるみたいだ。

 哲学山からの落下事故のために、既にそんなことは久しくしていないのだけれど、僕は人間に感心があり、昔は人の考えの根拠を尋ねることを時折した。もっと昔は議論をふっかける困ったガキだった。幾つかの考えの根拠を尋ねた答え。それらを共通して支持する考えを持っていることが推論出来たりする。ときにはそれらの人物の答えは矛盾する根拠に寄りかかっている。

 その頃、僕が行っていた「読思想術(仮)」なんて、日常的に行っている人はいくらでもいる代物だと思うケド。子供が尋ねそうな、シンプルなケースだと、「人を殺してはならない」と言う人がいれば、それを支持するのは「命は尊い」「人間は動物とは違う」「互いの命を尊重しない世の中では安定的な生活に困る」など、いろんな理由が支える。そして「命は尊い」と答えるなら、彼は「動物の命も尊い」と考えるだろう。「人間と動物とは違う」と答えるなら、動物の命を一段低く見ている。どちらも前後の文脈の影響は当然ある。前者に「でも僕達は動物を殺して食べるよね」と尋ねると「だから感謝して食べなければならない」と返ってくるかもしれない。子供が後者に「でも命は皆尊いんでしょう?」と聞くと往々にして答えを濁す。あるいは「そうだ、命は皆尊い」と答えるかもしれない。それは、子供に「命の価値に優劣がある」と答えにくいからかもしれないし、彼自信「命に優劣がある」と考えたくないからかもしれない。何にせよ彼の中では「人間と動物とは違う」は彼の他の思想とのコフリクトがある。

 とはいえ、こんな風に理解を進めうるというのは、言語で考え、自分の思想を言語で整理する人間に限った話ではあり、自分の思考の言語的精密さに頓着しない人の考えや捉えようを理解するのは結局困難であったりする。というのが昔の結論ではある。