Lesaria の Multiple-Choice

最近、本買いログがメインになっています。たまにPCやガジェットに関して記事にします。

本当のことは何処にある?

nowisee『バイブレーション』#01/24 - YouTube

 

 Second LifeでフレにこのPVを見せられて、ヘビロテしていると、言葉が出てきたので、書いてみたら、下みたいにまとまった。(PVは公式のようなので、ここに貼っておきます)

 

■本当のことは何処にある?

 「真理なんてものは無い、世の中は嘘と欺瞞に満ちている」なんて括るのは簡単だ。用意された真理の一つを信じて生きることもできる。多くの人はそうしてるだろう。でも「自ら考えるので無ければ、適応なんて檻に入るが如し」そう感じる人もいるんだろう。

 僕だけじゃないだろう、本当のことがあると思って生きてきて、そんなものが無いことにある日気が付くのは。例えば、アプリオリに生が意味づけれられていると信じ感じて生きてきて、それを知らないことに気付いて、それを求める。そんな風にこの問題と関わる人も多いかもしれない。アプリオリな意味を社会に求めることも否定しないけれど、自分は選びたくなかった。しかし人は社会からその基準を選んで組み立てる。触るもの触るもの嘘と欺瞞にまみれているように感じる。「本当のこと」がないことを知って絶望する。若者をそんな風に描く物語もある。当然作者の心情を反映しているんだろう。

 自分と離れたところで価値が独自に存在する。つまり先天的に生に意味があると信じて生きてきて、若者が哲学的に考える時期に、そうではないこと、また社会に満ちる意味に普遍的な真理がないことに気付くとき、そんな風に感じるのか。自らを離れて客観的に普遍的な意味を探すと実際、宗教に求めるしかなくなる。あるいは言葉にした段階で嘘になる。言葉にすることの欺瞞。哲学的にはその辺りで、プラグマティシズムの出番でなんだろう。

 僕の考えではアプリオリな価値なんか存在しない。価値は個々の生命が自らの生に与えるものだ。生命こそが世界を価値で満たす。実際にはこの「言葉」にも言葉にすることで生まれる欺瞞はあるだろう。

 仏教では生きることを引き受けるか引き受けないかという問題を扱うように聞く。そこにあるであろう議論には関心がある。ともあれ、自ら生に価値を与え生きることを引き受けるか社会に満ちた誰かが信じた価値を寄せ集める。どちらかだけを選択して生きるのは息苦しさの元である。これらのパッチワークを人は生きているように思う。だから悩める若者には「生きる意味は自分で与えるしか当面ない」ことを教えるぐらいしか、本当のことなんてとりあえず今は発見されていないように考える。単に社会的な価値をアプリオリな価値であると見なしてそれだけを信じるのは悪循環に思える。どっとみち、こんな事考える人間は、自らで考えないと窒息するんじゃなかろうか。