Lesaria の Multiple-Choice

最近、本買いログがメインになっています。たまにPCやガジェットに関して記事にします。

今日の戯言 思想と適応

 人間の外界に対する適応とは、大抵が社会に対するものである。社会が要請するものに適応するのが大抵の人間の生存戦略だ。成長の早い段階で行う適応が母国語の習得だ。

 
 社会が個々の人間に要求するものは合理的なもの、そうでないもの、伝統的慣習、性役割。様々だ。1つ1つの要求はそれぞれ矛盾していたり、個々人の中で調和しなかったりする。それは社会が要求するものが、元をたどれば個人が他者や社会に要求するものだからだ。
 
 社会から読み取った1つ1つは正しく思える信念もそれに従うTPOや、優先度を間違えれば途端に不協和音を引き起こす。常に真実を語るべきである。嘘を付くべきではない。自分の気持ちに正直に。これらも身を守ることもあれば、自身も他人も傷つけうる。かと言って相手を不快にさせないこと、傷つけないことを最優先にすることがいつでも正しい訳ではない。
 
 こんな例を持ち出したのは、空気を一切読まず、場が妥当か否か、適切か否か、稚拙な意見ではないか、そんなことを考えずに自分が考えて信じることをそのまま率直に口に出すそんなガキだったからなんだけど。
 
 また幾つかの「考え」は社会から学習する別の考えから論理的に推論される。人によっては感情的な落とし所としてそれを得る。ここに個々の人間の考えの予測可能性を感じるのは前からブログに書いている通りだ。
 
 ちょっと飛躍するけど、このブログを続けて読んでいる人には分かるだろう。思想も環境により淘汰され適応する。「考え」は置かれた環境に適切な振る舞いを学んで言葉にする。それまでに培ってきた思想の延長として。
 
 こういうことを考えていると「例えば成功している人に共通するものの考え方」なんて本のタイトルが説得力を持つわけです。とはいえ適応的な行動や発言は置かれた周辺環境によって違う。つまり成功するための考えなのか、成功した故の考えなのかはこういう本を実践をする際にはよくよく考えたほうがいい。
 
 仕事に絡めると、業種、職種、職責、職権によって抱く考えに差はあるだろう。その立場に置かれた人間は、それに見合った思想をよく言えば獲得する。それが評価に繋がるし、それが自分を向上させる仕事哲学のように語られる。まぁ馬鹿にする論調に繋げるのも、持ち上げる論調に繋げるのも、この文の趣旨に合わない。僕の意図とも遠い。僕は思想と社会適応について、たまたま、考えて客観視して、明らかにというか言葉にしてみたくなっただけだ。これらは適応であり生から成果をあげる為には適応が必要だ。
 
 まぁ同心円的言及の域をでないけど、というか前書いたことと同じ内容で新しいこと書いてない気しかしない。なんかこう大抵の「哲学」とか「大人になる」って置かれた環境、身を置いた仕事に適応的な「考え」を身につけるってことに相違なくて、普遍的だったりしない。的なこと書こうと思ってたようなんだけど・・・。風邪辛いからここまでにします。お休みなさい。
 

 

ユダヤ人成功者たちに秘かに伝わる魔法のコトバ

ユダヤ人成功者たちに秘かに伝わる魔法のコトバ