Lesaria の Multiple-Choice

最近、本買いログがメインになっています。たまにPCやガジェットに関して記事にします。

代々木、原宿、言語ゲームからの戯言

■代々木、原宿
 土曜日は午後から食事友達と落ち合い、お茶して新宿をブラブラ。家電店で彼のリサーチにつきあい、代々木、原宿、表参道まで歩いた時には19時。ティーヌーン青山店で食事をして、渋谷まで歩きました。歩いた距離は一日で11km。少なめ。でも今朝の体重は78.2kgと0.6kほど減。ちと安心しました。

言語ゲーム
 読書は橋爪大三郎「はじめての言語ゲーム」をもうすぐ読了。ヴィトゲンシュタインの思想を説明する良書だけれど、説明される思想にかすかに反発を覚えました。よくよく考えると理由は明白で、僕は価値というものを個人が世界に与えるものと見做すのに対し、この本においては、たぶんヴィトゲンシュタインの思想がそうなのでしょうが、「個人が世界に価値を与える」がなく、個人に先だって世界に価値があるように書かれています。

 とはいえ、この違いは思想の立脚点を何処に置くのかに過ぎません。僕個人にとって、価値とは僕が世界に見出すものです。しかし世界には先住者がおり、彼らは自らが世界に見出した価値が存在し、社会はそれを世代をこえ引き継ぎつつ動いているのですから。

■からの戯言
 前者は独善的、独りよがりになりがち。後者は自分の価値を生きていない。自分で思考した価値を生きていないと批判されがちです。そこから僕が考えた結論(というほどでもない)はどちらも事実に相違ないというものです。

 どちらかの立場しか取れないという訳でもないと思いたいのですが、その理屈はともかく、思考するに辺りどちらかの立場を取って前提とすることが楽らしく(そこをもう少し詳細に論じようとして、なんか胆力足りずにあきらめました)前者は個人主義を選び、後者は集団主義を選びがちに思えます。

 そしてまぁ人を個人主義集団主義に分ちがちなこの分岐点は世の中の色々な立場の違いを生んでいます。そして、この思索は「あの時の続きを生きて考えている」気にさせてくれます。

 

 

はじめての言語ゲーム (講談社現代新書)

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