読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Lesaria の Multiple-Choice

とりあえず、日記がメインのはず。最近では、小説を公開したり、聴いた音楽や考えてることについて話してます。

今日も胡言乱説を展開してみる

書籍 哲学&思索

 最近、言葉を器官と見なすことを考えていた所、伊藤計劃の「虐殺器官」で「言語」を「器官」と見なす文章に出会った。本書のタイトルとつながるのだろうが、ちなみにまだ読み終えていない。シンクロニシティですな。僕は言葉一つを「器官」と着想したのだけれど、この本では「言語」をそう呼び、また「自我」をも「器官」と呼ぶ箇所がある。詳細は他のブログに譲るとして、そんなわけで今週末中に読んでしまいたくなっている。

 思想はきっと社会と自己の感情の間の産物だろう。そしてその思想の堆積が感情へと変わっていく。そんな風に考えている。感情がすでに受け入れたり行ったりした過去の価値判断が無意識に行われているもの。という考えは幼稚園の頃に思ったことだけれど、共感してくれる人が近くにいなかった。上述の小説では。感情は価値判断のショートカットであるという記述がある。

 「シンクロニシティ」と言い表したが、これらの類似性は別段、現代社会で珍しいことではないだろう。ある着想を別の人間が抱き得るのは在り来たりのことだ。いくつかの類似した前提から思考を進めれば同じ結論に至るのだから。類似した考察をしたのは伊藤計劃だけではないかもしれない。誰かを引いた可能性もある。僕みたいに無学な方ではないだろうから。僕は興味を持って思索していることの知識を書を読むことの方に重点を置いて進めない。悪い癖なのだけれども、ここで行うような「思索」を「車輪の再発明」と言って避けることは今のところない。自分自身で考えることに重きを置いているからだ。まぁそのために割を食っているのだろうと強く思う。

 まぁ言葉で括りだして、論理で組み立てているだけの実証無き戯言なのは承知で今日の着想を言葉にする。人間は社会と過去の価値判断の間に今の自分の正当性を肯定する思想を縫うように紡いでいる。とみなすことが出来るかもしれない。もちろん思索を進めるなら「思想」を必要としないパーソナリティも意識から排除すべきではない。

 

追記 以下の小説、映画になるそうですね。

虐殺器官〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)