■駆け足で近況
先週の土曜日は休日出勤。夜はおでんで忘年会、ひさしぶりにシッカリお酒をいただいた。日曜日は風邪のため、友人とのお茶会ですまそうとしたけれど、気が変わり夕方からスポーツクラブ。今週の土曜日はお昼から、新宿で寿司の食べ放題で忘年会。カラオケで歌って皆でゲーセンやブックオフを冷やかして帰宅。夜はスポーツクラブ。本は新潮文庫、フロイトの「精神分析入門」(上)を読んでる途中。
■毎度の戯言
我々は、世界からモノを取り出して捉えている。モノには名前がつけられ、世界自体から区別される。異なるモノ同士は名前で区別される。似たモノ同士は同じ種類として名前を与えられる。上位の抽象化した名前が似たモノを括る。
こう思うと、抽象的な括りにはその方向性を想定できる。これは単に分類の問題としてもいいかもしれない。色、形状、材質、用途、製法。ここまでは姿形のあるものに名前を付けることを想定していたが、思考の上で取り扱う為に、形の無いモノにも人は名前を付ける。動き、動きの性質。これは動詞や副詞として、日常的な言葉に溶け込んでいる。学術的には重力や無意識も形(物質的形状)のないモノではないか。無論、重力はいつか「重力子」なるものが見つかるかもしれない。無意識は脳神経の繋がりにいずれ還元されるかもしれない。相関関係、因果関係。これらは関係に名前がつけられている。
■まとめる。
言葉で捉えることの本質は他と分けることにある。それはモノとして取り出すことかだろうか。行着く所は細分化していくだろう。経験的には細分化の一定の段階ごとに取り扱い易い粒度の層があるように感じた。その層では思考しやすかった記憶がある。
多分、最初に立てた僕の問を吟味するに、モノを取りだして、因果関係で世界を分けるべきというのは結論ではないだろう。意識を言語化して世界を捉えるのにそれは必要だけれど。僕が考えたいのは自分の利益と自己実現につながるように世界を分かつにはどうすればよいかということだと思う。