Lesaria の Multiple-Choice

とりあえず、日記がメインのはず。最近では、小説を公開したり、聴いた音楽や考えてることについて話してます。

今日の思索。~内から出てきて書き連ねた文章からあまり遂行していない版~

 僕の当面の問題は「どう捉えるべきか」であるのだと思っている。そして「どのような基準でモノを捉えるべきか」この2つは自身の今後の人間性を左右しうるような問題であるように思う。

 たとえば「人を捉える」。多くの人間は多分、他人を非難して自分を省みる。他人を非難して自分の優位を評価する。こういうことを行いがちだ。そして多分それで良い。限られたリソースで自らを組み立てる。そのためにこういったプライドやらルサンチマンやらコンプレックスやらを利用して自らが良しとする価値なり基準なり思想なりを効率的に形成して出来上がった自分つまり「戦略」を武器に自身の生の成果を得れば良い。また例えば自分を自己の価値観のなかで優位にたたせたいために他人を非難する。そのために相手より自分が優位にたてる価値観を選ぶ。これらのことは例えば心を守るために自然に人間が行うことだ。僕も行っている。

 しかしこれらは、例えば強いストレスを得た時これに基づいて必要以上にその基準から離れた人を非難したくなる時、危うさを感じる。加えてこれらに対する非難はもともと熟慮なく便宜的に自らを浮かび上がらせるためにまたは心を守るために飛び付いた価値だ。そんなものの見方をストレスから過剰に世界に適用しようとすることは適当だろうか。こういった熟慮なき価値を僕らは沢山抱えているに違いない。

 加えて言及しよう。他者を評価するとき批判的に見ることが不要とは思わない。しかし無闇に経験したことのない有り様を批判的に見るのは言われなき中傷となっていないだろうか。そして他者を理解する物差しとし適当だろうか。前にも書いた気がするが「他者の在り様」をむやみに批判するのは僕には本位ではない。「ある一定の基準」を持ち出してあの人はその基準に満たない。ということを他者を理解する基準にするのは道義的以前に妥当だろうか。

 以前の記述を引き合いに出すなら、こういう風に「人を捉える」ことにリソースを割くことが「最適解」だろうか? ともあれ、結局僕が落ち着いたのは、人がどのような「適応戦略」をとっているかで分類することです。一旦そう考えます。簡単に言うなら「長所を本質的に評価する」ということ。ここまで書いてとてもありがちな結論だとは思う。そして今日も「とまで考えてこれも昔来た道と、既視感を覚える。そしてウィトゲンシュタインを思い出すのです。」という文章で締めくくりたい気持ちに・・・。

 閑話休題ウィトゲンシュタインは兎も角。哲学は同じ対象を同心円状に言及していると言う批判をたまに見ます。ですが実際にはその同心円は巡る度に波紋のように広がっていく。だから毎回理解は深まって行くのだと思っており、僕はそういう立場に立つことにしています。というか昔そうしていたことを思い出した。

 そしてこれだけでは「どのような基準でモノを捉えるべきか」に答えれていません。合理的、合目的というのは目的ではない。自らの生を豊かにするのが目的とするなら。何が人生における豊かさかについて規定する必要がありますよね。