Lesaria の Multiple-Choice

最近、本買いログがメインになっています。たまにPCやガジェットに関して記事にします。

雨の言葉と柔軟さ。

 本日(8/30)は高田馬場を振り出しに神楽坂。国定忠治が子分と別れるより随分まえに分祀されていると思うのだけれど。赤城神社で今回も「今宵限り…」と呟いて。境内のカフェでお茶。飯田橋に向う。で雨がポツリと来たのでそのまま地元に引き換えして、茶飲み友達とお茶して帰宅。自宅に招きお茶2回目。そして昼寝。起きて自炊一冊。夕飯。そこからネトゲにイン。

 今日の思索。言葉で物を捉えるということの本質は、対象を分割して捉えるということだ。分割するというのは即ち「実存的世界」から個別に取り出すことなのだけれど、個別に取り扱う意味は任意にリソースを再分配するため。捉えることで価値あるものにリソースを割き、無価値であるものにリソースを割かない。つまり合理化と効率化。としようとして、理解のみを目的として自らにとって合理的であるとか効率的であると言った判断を後回しにすることもあるわけだと考えて答えに飛び付くのを思いとどまった。言葉で捉えることで可能になることではあるけれど、それの本質と呼ぶべきかは一考すべきだろう。

 今日の思索のその2。物事に対処する際の言語化された思考フローとして、何を指針に対象にかかわるかとか、まず目的を問うべきかとか、頭に置いとく「分類」に対して思いを巡らす。何か行う時に「目的」を置くと合理的もしくは合目的に要件を満たしていける。「指針」たとえば、「ひとつひとつ丁寧に」などを加えて置くと「質」などをコントロールしながら要件を満たしていける。ただ「丁寧」が過ぎると「柔軟さ」とか「ほどよいいい加減さ」が失われて1から100まで定義しないと行動できなくなる。とかそんなことが頭を巡った。

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